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古代日本の歴史は嘘だらけ?
- 2018/03/21(Wed) -
我々日本人が学校などで必ず習う日本の歴史は

古事記・日本書紀の記述通り、神話から始まり

初代・神武天皇から現代125代・明仁天皇まで

万世一系で続いて日本を支配している事になっている。

皇族という意味では、代々受け継がれて今に至っている

のは、自然であり確かな事だと思うが、天皇として

日本を最初から統治していたかどうかは、別問題である。


今判っている存在していた最古の天皇は、天武天皇(大海人)で

あり、壬申の乱を引き起こした人物。

以降、倭国は日本へと国号を変え概ね歴史がはっきりとし始める。

問題は、天武天皇以前がかなり不透明で4世紀に至っては

文献など乏しく空白とも言われている。

しかし、海外は、どうだろうか?

中国に至っては、夏王朝から始まり、殷、周、春秋戦国時代と紀元前の歴史が

しっかりと残っているし、兵馬俑などの出土品で歴史の背景まで分かる。

何故、日本はたかだか7世紀以前の事があやふやなのだろうか?

恐らく、日本の支配者層の都合という物があったのかも知れない。


日本の文献に対しておかしいと思う部分は、中国の隋書倭国伝の記述との

食い違いである。

中国の隋書は、唐の時代600年代前半に大まかな編纂が完了した歴史書で

列伝第46東夷の項目に倭国の事がしっかり記載されている。

「開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌

遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。

使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時

出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば

すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。

ここに於いて訓令でこれを改めさせる。」

「王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。

城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁

大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。

軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き

今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。」


開皇二十年(600年)は、倭国では、推古天皇8年にあたる。

しかしながら文献には、推古天皇の名前、大和朝廷の存在すら

登場していない。

日本の文献通り、古代から絶大なるヤマト王権があったとしたら

中国の歴史書にしっかりと明記してるはずである。

その代わりに記述されているのが阿毎多利思比孤(アマタリシヒコ)

阿輩雞彌(アハケミ)。

名前からして、第六代孝安天皇の実兄「天足彦国押人命」に該当する。

年代こそ、かけ離れてはいる物の、天足彦国押人命は生没年不詳に

なっており日本の文献では、曖昧になっている。

それよりは、隋書に明記されている事の方が断然信憑性が高い。

もう一つ大事なのは、阿輩雞彌(アハケミ)=大王(オオキミ)である。

開皇二十年(600年)の倭国には、天皇という称号が存在せず、全て大王。

天足彦国押人命は、紛れもなく倭国を統治していた倭王だった可能性が高い。

天足彦国押人命は、和邇氏・小野氏の祖となっていて、小野氏というと

607年に2回目に隋へ遣わした遣隋使、小野妹子が有名であり

倭国王の血族である小野妹子を遣隋使として遣わすのは、至極当然ではなかろうか。


神武天皇から元正天皇までの歴代の天皇に漢風諡号を付けたのは

奈良時代の皇族であり文人の淡海三船。

ただ、この漢風諡号のお陰で、初代から天皇になってしまっているのである。

それは、歴史上の人物として、分かり難くくしているのでは?と思う。

恐らく、天武天皇以前は、大王(オオキミ)という号で呼ばれていたのだとすれば

漢風諡号では無く、隋書の記述通り名前とオオキミで明記した方が正確であると

言える。


「太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。」

隋書のこの部分の記述は、その後の冠位十二階を思わせる記述を見ると

聖徳太子に比定出来る利歌彌多弗利という人物が明記されている。

利歌彌多弗利(リカミタフリ)※読み方に諸説あり


「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時

出でて聴政し、結跏趺坐し、日が昇ればすなわち政務を停め

我が弟に委ねるという。」

倭国を兄弟で統治していたとすれば、天足彦国押人命の弟に

日本足彦国押人命(第6代孝安天皇)が居り、それぞれの

和風諡号の頭が天と日であるが、これは考え過ぎであろうか…

確証のない下手な推測は、真実を逆に自ら埋めてしまう可能性も

あるから気をつけなければならない。

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小野神社
- 2018/02/17(Sat) -
元狭山神社を後にして、国道16号沿いを南下

40分程で小野神社に着いた。

京王電鉄京王線、聖蹟桜ヶ丘駅から西に徒歩6分程の所に

小野神社はある。

小野神社

何故、小野神社へ来たのか?

それは、小野神社が武蔵国の一ノ宮だからだ。

一般的に有名なのは、大宮にある氷川神社であるが

色々調べてみると小野神社が武蔵国造の起点の地である事が分かる。

小野神社には、武蔵国造の祖神、天下春命(あめのしたはるのみこと)を

主祭神として祀っているのである。

そして、厄払いの神社としても有名な神社であるのだが

それもそのはず、一緒に祀られているのは、瀬織津姫(せおりつひめ)なのである。

瀬織津姫は、祓戸四神の一柱であり、川や滝の水神。

穢れを川に流すという意味合いがある。

小野神社・御祭神

御祭神は次の通り

・天下春命(あめのしたはるのみこと)

・瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)

・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

・素戔嗚尊(すさのおのみこと)

・大己貴大神(おおなむちおおみかみ)

・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

・彦火火出見尊(ひほこほでみのみこと)

・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)


小野神社拝殿の左手に摂末社があり次の通りそれぞれ祀られている

伊勢神宮内宮 - 祭神:天照皇大神

伊勢神宮外宮 - 祭神:豊受大神

三嶋神宮 - 祭神:事代主命

八坂神社 - 祭神:須佐之男命

愛宕神社 - 祭神:軻遇突智命

安津神社 - 祭神:日本足彦國押人命

日代神社 - 祭神:大足彦忍代別命

鹿島神社 - 祭神:武甕槌命

子安神社 - 祭神:木花開耶姫命

厳島神社 - 祭神:市杵嶋姫命

方便神社 - 祭神:鹽土老翁命

堰宮神社 - 祭神:水分神

秋葉神社

稲荷神社


小野神社付近は、鎌倉時代に武蔵七党の筆頭、横山党の領土で

横山党の武士団が開拓した地であると神主さんから情報を得た。

言われて気づいたが、武蔵国の一ノ宮〜六ノ宮全部が

武蔵七党の領土と重なるのである。

そして、中心に大国魂神社(六所宮)。

今まで意識していなかったが、こうして見てみると

それぞれの神社の建てられた場所に納得がいった。




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元狭山神社
- 2018/01/26(Fri) -
2018年に入って、良く古代史の話しで盛り上がるお友達(古代史研究会員)の脇さんと
気になるお寺を実際に行ってみる事になった。
一昨日の大雪で、凍った雪が残る悪路の中、我々は一つ目の元狭山神社へ車で向かった。

何故、我々が神社へ行く事になったかと言うと、興味をそそる事柄が二つあったからだ。
一つは、我々の住む武蔵国の歴史を調べていて、武蔵国の一ノ宮が小野神社であり
その小野神社の御祭神に瀬織津姫の名があったから。
もう一つは、脇さんから教えてくれた元狭山神社に祀られている駒形神である。


元狭山神社
参道が雪で覆われた元狭山神社


積雪が思いの外、多かった為に普通の靴を履いて来てしまった事を後悔しながら
参道を進むと直ぐ右手に由緒書きがあった。

埼玉県入間郡元狭山村の四つの村落にあった

1駒形鎮座・駒形神社(元狭山神社)

2高根鎮座・高根神社

3駒形富士山鎮座・八雲神社

4富士山栗原新田鎮座・子安神社

の四社を村の中央に移転合祀し、大正七年社号を元狭山神社と改めたとある。


元狭山神社・御祭神
元狭山神社拝殿の御祭神表

・駒形神
・奇稲田姫命
・素戔嗚尊
・大己貴命
・綿津見豊玉姫命
・建御名方神
・軻遇槌命(かぐつちのみこと)
・菊理媛命(きくりひめのみこと)
・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
・伊弉冊尊(いざなみのみこと)
・木花咲耶姫命(こんはなさくやひめのみこと)
・天照大御神(あまてらすおおみかみ)
・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
・味耜高彦根命
・大山祗命


御祭神の名前は、右から始まっており、駒形という名前は気になるものの
地元の地名ともなっている神なのだから最初に名を連ねているのは納得行くが
イザナギ・イザナミもさる事ながら、天照大御神も順番としては、後の方。
神社によってお祀りする神様の順番の決まりなどが有るのか分からないが
とても気になる。


元狭山神社合祀記念碑
元狭山神社合祀記念碑



もう一つ元狭山神社で気になる所は、拝殿の左手に有る元狭山神社合祀記念碑である。
記念碑の表側に「大勲位公爵松方正義書」と書かれている。
記念碑の表面が長年の汚れや苔が付着し、普通なら見過ごしそうな所脇さんが発見した。
神様ではないが、松方正義といえば、初代大蔵大臣、総理大臣など歴任し日本銀行を創立
した大物だが、何の縁があって元狭山神社の合祀記念碑に明記してるのか
これもまた疑問である。
この事も含め、神主さんに尋ねようとしたならば、神主さんのお住まいは、元狭山神社から
やや離れた所にあるらしく、神主さんも神社に常駐している様子が無かったので
今回は、諦めた。

次は、小野神社へ向かう。
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